こんにちはコンテンツ部顧問のnoriです。今回はクリストファー・ノーラン監督の作品「オッペンハイマー」がやっと日本公開になりました。BSMにおいても様々な感想が発表されていますが、これに合わせて少しロバート・オッペンハイマーという人物の補足を何回かに分けてしたいと思います。
映画の内容は
原爆開発の中心的人物である理論物理学者ロバート・オッペンハイマーの半生を中心に、1940年代〜60年代の米国の核開発の裏側を描く野心作。伝記「オッペンハイマー 『原爆の父』と呼ばれた男の栄光と悲劇」を原作にした反核・反戦映画でもあるドラマ作品でありながら、IMAXカメラによる撮影や実験的な構成を駆使し、約1億ドルの製作費を費やした3時間の超大作になっていますね。
ゴールデン・グローブ賞とアカデミー賞
昨年アメリカで公開され、ゴールデン・グローブ賞については、ドラマ部門の作品賞と主演男優賞、さらに監督賞、助演男優賞、作曲賞の5冠を獲得しました。私的パートナーでもあるエマ・トーマスとともにプロデュースも手掛けているノーランですが、監督賞は6度目のノミネートにして初受賞を果たしています。アカデミー賞においても、作品賞を受賞。その他に監督賞、主演男優賞、助演男優賞など7部門を制し、最多受賞となりました。
作品の内容については、各自の感想で良いと思います。しかしながら映画故、時間の関係もあるかもしれませんが必ずしも正確でないような気もしています。既に多くのメディアやSNS等で映画評が語られていますが、今ひとつ釈然としないのが正直な感想なのです。それは何故か?少し彼の人物像を深掘りすると変化するのかもしれません。
オッペンハイマーを知っている?
コンテンツ部顧問らしく少し他の映画作品を利用して導入部にしましょう(笑)。「ジュラシック・パーク」(1993年公開作品・監督:スティーブン・スピルバーグ)という映画あります。BSMの多くの方々も鑑賞した作品であろうと思います。その中にロバート・オッペンハイマーの肖像写真が大写しになる箇所があります。恐竜パークを管理するコンピュータのディスプレイに向かって左側に貼り付けてあります。オッペンハイマーの顔のすぐ上には原爆のキノコ雲のマンガも貼ってあります。そのコンピュータを操作する男ネドリーにとっては、オッペンハイマーがアイドルであることを監督のスピルバーグは意図的に示しています。ここに、オッペンハイマーとは私たちにとって何かという問題が見事にまとまった形で顔を出しています。このネドリーという男の性格、思考パターン、行動は「ジュラシック・パーク」の恐怖物語の展開にとって要の位置を占めています。コンピュータの技術者としては有能で不可欠の人物ですが、自分の欲望に歯止めがなく、金次第でどのようなことでもします。他人にどんな迷惑がふりかかろうとお構いなし。このネドリーという無責任野郎がいなかったら、ジュラシック・パークの破局はまだまだ先のことになっていたでしょう。ネドリーと自分を同一化する観客は一人もいないと思います。ネドリーは自分でないのです。地獄に堕ちるネドリーを見つめる快感は、スピルバーグが巧みに私たちに売りつける商品の一つでなのでしょう。でもそこが僕には辛かった印象があります。多くの人たちのオッペンハイマーの評価はこのような評価だと思ったからです。
核兵器の問題はいつも僕の心の中に張り付いています。12歳の長崎の修学旅行をきっかけに以来半世紀近く自分なりに考えています。
原爆を可能にしたのは物理学(者)です。原爆の開発を政府に進言し、それをロスアラモスの山中でつくりあげたのも物理学(者)です。「原爆の父」ロバート・オッペンハイマーは「物理学者は罪を知った。これが物理学者が失うことのできない知識である」と言いました。湯川秀樹は核兵器を「絶対悪」であるとしてその廃絶を唱えました。しかし、その湯川秀樹さえ糾弾されます。湯川秀樹が原水爆を絶対悪として平和運動を進める一方で、依然として物理学研究の喜びを語っていたことがその原因でした。ようするに「物理学を教えてよいのか、よくないのか」ということになります。僕の結論は明確です。「物理学は学ぶに値する学問」であると。
1945年10月にロスアラモスを去ったオッペンハイマーは、二度と核兵器の開発に手をつけることはありませんでした。その後、1947年10月プリンストンの高等学術研究所所長となり、1948年には湯川秀樹を、1949年には朝永振一郎を客員教授として招きました。ご承知の通り、1949年には湯川、1965年には朝永がノーベル賞を受賞します。この受賞に関してはオッペンハイマーの推薦が少なくなかったとされています。
話をもとに戻して、
オッペンハイマーに対する考え方
僕の考え方は明瞭で、私たちはオッペンハイマーに、私たちが犯した、そして犯し続けている犯罪をそっくり押しつけることで、アリバイを、無罪証明を手に入れようとしているのではないかと思えてしかたがないのです。
「人は人に対して狼なり」という西洋の古い格言があります。人間が人間に対して非情残忍であるという格言ですね。僕は言葉遊びでこの格言を改造して「人は人に対して人なり」という方が分かりやすいと考えてます。人間ほど同類に対して残酷非情であり得る動物はいない。人間が人間に対して加えてきた筆舌に尽くしがたい暴虐の数々は歴史が証明しています。それは不動の事実であり、人間についての失うことのできない確かな知識だと思うのです。その歴史の一つの事実として原爆(開発)があると考えています。
物理学者であるユージン・ウィグナー(1963年ノーベル物理学賞を受賞)は言います。
「彼の名は今ではかなり知れ渡っているが、彼について一般に思われていることのほとんどは誤っている」
少しオッペンハイマ-について良い意味でも悪い意味でも深掘りした人物像に迫ってみましょう。既に映画鑑賞をした方もこれから映画鑑賞を考えている方にも少し参考になるトピックスをこれから数回に渡って紹介しようと思います。
優等生
ロバート・オッペンハイマーの正式名はジュリアス・ロバート・オッペンハイマーと言います。通称はオッピーでも知られていますね。1904年4月22日~1967年2月8日、63年の生涯でした。生まれた年の1904年と言えば日本では明治37年であり明治天皇の「露国に対する戦線の詔勅」が出され日露戦争へと突入した時代です。
父親の名前はジュリアス・オッペンハイマーといいます。1871年ドイツ西部の小都市ハナウで農業と小さな穀物商を営むユダヤ人の家に生まれました。一家はユダヤ教の戒律を捨てた無宗教のユダヤ人でした。彼は既に衣料業者として成功した移民第一世だった母方の親類に呼ばれて1888年17歳でニューヨークへ渡米します。それから15年後、彼は青年実業家として成功し巨額な富を得るとともに、1903年エラ・フリードマンと結婚をします。このエラ・フリードマン、つまりオッペンハイマーの母親もドイツのババリア地方からアメリカのボルチモアに移住し定着したユダヤ人の旧家に育った人でした。エラはパリで一年間印象派の画風を学び、ニューヨークでアトリエを持って生徒もとっていた画家でした。父親になるジュリアスも芸術に対する真正の愛好があったようで、この夫婦の収集は相当なものであったようです。少なくとも数枚のセザンヌ、三枚のゴッホそれにドラン、ビュイヤールなども含まれていたようです。結婚の翌年(1904年)ロバートが生まれます。
5歳の時、オッペンハイマーは祖父に会うために大西洋を渡ります。その時、祖父が鉱物標本セットを渡したことが彼の知的好奇心に火をつけることになります。その知的好奇心は止まることを知らず、自分の部屋の棚には岩片や鉱物結晶で満たされ、更にニューヨーク鉱物同好会の正会員となり12歳の頃にはその会合で研究発表するまでになりました。
アドラーの倫理文化学園
オッペンハイマーと映画でも出てくる弟のフランクが通学した倫理文化学園はF・アドラーが設立し、ニューヨークの裕福な家庭の子供たちの私立学校として知られています。
その頃のニューヨークには二種類のユダヤ人がいました。主に西ヨーロッパからの移民でアメリカ東部の産業経済の発展の波頭に乗って、才覚と資力で社会的地位の向上と確立を目指す富めるユダヤ人と、東ヨーロッパの各地からアメリカの新天地に流れ込んではみたものの、金もなく学歴技能もなく、都会の汚濁の中に埋没して生きる貧しきユダヤ人に分かれました。富めるユダヤ人はマンハッタンの北西部(アッパーウェストサイド)の住宅地に居を構え、貧しきユダヤ人はマンハッタンの南東部(ロウワーイーストサイド)やブロンクス地区のスラムに集中していました。当時の繊維衣料業界でのユダヤ人実業家たちの成功の裏には、彼らが貧しいユダヤ人移民を低賃金で酷使するという酷い図式が成立している事実があるのです。
恵まれた家庭で育ったオッペンハイマーですが、ここから面白い事実が少しずつ表面化します。
教師の間では優等生ロバートの受け入れは最高だったのですが、同級生の間では必ずしもそうではありませんでした。知的能力や知識を鼻にかける一方、体を使うことになると無様な姿を見せることが多かったのです。一階上の教室に行くにも階段を使うのがおっくうでエレベータを使うことが多いので、授業開始が遅れることが度重なって親宛に「お宅のロバートに階段を上がることを教えて頂きたい」との通達が来たことも有名な話ですね。14歳のころにはいじめも受けています。父親が対処しましたが。その頃は誰でもそうですが、男子生徒の間ではポルノ写真が回覧され、ロバートもそれを閲覧することになります。そして、ここが重要な起点になるのですが、高校生になるとニューメキシコから転学してきたフランシス・ファーガソンと知り合うことになります。二人の関係は長く続くことになるのですが、後年「首絞め事件」が起こります。それは次回以降でお話ししましょう。
社会との関連性と社会問題に対する無関心
少し時間を進めて時は1954年の聴聞会の頃になります。オッペンハイマー聴聞会の冒頭の自己弁護の陳述の中で、社会問題に対する無関心が30歳を超えるまで続いたことを申し立てて、オッペンハイマーは「1929年の秋の株式大暴落も時がたってから知った。投票したのは1936年の大統領選挙が最初だった。・・・物理学には深い興味を持っていたが、人間とその社会とのい関係について何の理解も持っていなかった」と述べています。僕は、とてもそのままを受け取ることが出来ませんでした。映画でも描かれているようにハーバード大学の時代から左傾化の著しい時代を迎えているのですから。
その頃の彼に対する感想(同窓(女子生徒))の話が面白い
「彼はまだいたいけな少年でした。ひどく頼りなげな体つき、ピンクそのものの頬の色、いたく内気で、もちろんとても頭のよい子でした。・・・身体的には未発達で・・・不器用とは少し違うのですが・・・その歩きぶり、椅子に座るときの様子、彼にはどこか奇妙に幼いところがありました。何かバランスのとれていないところがあったのです。突然その内気さを振り切って前に出てくることがありましたが、それも、何というか、とても丁寧なものの言い方でした。」
思春期時代の彼の姿・性格を表していますね。
次回は、その後の話、ハーバード大学の頃の話をしましょう。