#BSMAC2023 の記事になります。
BSMアドベントカレンダーは、BSMメンバーがクリスマスまでの期間中、毎日マガジン記事を投稿する企画です。BSMメンバーでない方も全て読むことができますので、クリスマスまで一緒に盛り上がりましょう!
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こんにちは。コンテンツ部の顧問をしていますnoriです。アドベントカレンダーも残すところ今回を含めてあと3回。肩苦しいタイトルですが、皆さんも普段絶対に考えている事、行動している事を振り返ってみましょう。年末・年始に近づいて少し時間の余裕もありますしね。
タイムマシンに乗って
タイムマシンに乗って少し過去に遡っていましょう。遡る年は1972年。
松尾さんは生まれていても、まだドリキンさんは生まれていません。影も形もない(笑)。
導入部で少し長くなりますがお付き合いの程をよろしくお願いします。
どんな事が起こったというと、
ミュンヘンオリンピック開催、自動車に初心者マーク登場、ハイセイコーが大井競馬場でデビュー、東北自動車道開通、上野動物園でパンダ公開 等々
といった所でしょうか。当時小学生だった僕には上記ような出来事が記憶に残っています。
行列の中、上の動物園にパンダを家族で見に行ったものの見学者の数が多すぎてゆくっりとは見られませんでした。パンダは寝ていてお尻を一瞬見ることは出来ました(笑)。
それでも、その年に強烈な記憶として残っているのが2つあります。
「札幌冬季オリンピック開催」
と
「連合赤軍によるあさま山荘事件」
でした。
2つのトピックスは同年の2月にあったものです。
札幌冬季オリンピックでは宮の森ジャンプ競技場において70m級ジャンプ(現ノーマルヒル)において笠谷幸生選手が金メダル、そして銀メダル、銅メダルも日本人、表彰台を独占したのが嬉しい出来事でした。
その嬉しい出来事もつかの間、下旬には日本全土を震撼させる事件が、あさま山荘事件でした。
概要は、
あさま山荘事件は、1972年(昭和47年)2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器製作所の保養所「浅間山荘」において連合赤軍の残党が人質をとって立てこもった事件でした。死者3名(機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(機動隊員26名、報道関係者1名)を出した事件で、この事件が終わる2月の下旬まで東京の交通量は少なくなり、学校から帰ると1日中この事件の中継が放送されていました。職員室のテレビもこの報道を流していたと記録しています。
当時は70年安保闘争が次第に下火になったものの、まだ過激に行動しているグループがあり、その一つが連合赤軍でした。
少し前の1970年頃、母に手を取られながら新宿、池袋に行っても駅前のロータリーで学生がシュプレヒコールを唱えていて「安保反対!、安保反対!」という大人数の声を聞くことになります。「大学生は勉強もせずに何をしているのだろう?」と素朴な疑問を持ちながら小学生になっていきました。質問すると父や母はその疑問に答えてはくれませんでした。後で分かるのですが、当時の70年安保の学生運動に対しては、それ相応の疑問を持っていたらしく、ファッションと捉えていたようでした。
さて1972年に戻りましょう。上述した事件が終了するといつの間にか小学2年生になっていました。私立の小学校にいたので、教科書は使うものの大半の授業は独自のプログラムで授業展開されていました。
4月から朗読の授業が始まりました。「ながいながいペンギンの話」が教材でした。本を見ながら先生が朗読を始めます。朗読を聞きながら文章を目で追っていきます。2週間程度の授業で本を読み終えますが、最初は朗読、その後は個人で感想を述べたり、グループで感想を言い合いました。楽しい授業なので「続けて欲しい」といいう要望に対して先生は「今度は自分たちで本を探して読んでみなさい」と読書の道を導いてくれることになります。
諺
朗読の授業が終了すると次の授業は「諺」の授業でした。クラスの何人かは次男坊、三男坊がいたので幾つか諺を知っているクラスメイトはいました。
いつもの通り先生が黒板に「ことわざ」と書きます。僕たちは今日は何を習うのだろうと興味津々です。「木を見て森を見ず」と書きました。すぐに黒板右半分を使って大きな森、左には木を白のチョークで描きます。森に緑のチョークを使って描いていたのは今でも印象に残っています。
内容は、「小さい事に心を奪われて、全体を見通さないたとえ」でまとまられると思います。小学2年生の発達段階を考慮すれば本時の授業目標は、その内容の概念を捉えることができ、たとえの具体的な例示を提示できれば授業目標を達成できたといっても良いでしょう。もちろんとても幼稚な具体例であることも配慮しなければなりません。
説明が終了すると個人でグループで議論が始まります。どんな状況が、そのたとえに該当するかといった事ですが、意見を言い合う状況(議論)に恵まれたことについては今でも感謝しています。今で言うアクティブラーニングですね。
振り返れば、何故この諺を選択したのかを考えると上述した「あさま山荘事件」が大きく関わっていると推測しています。自分達の理想を追求するのは良いのですが、次第に過激になり、追い込まれ、最後にはこのような事件を起こしてしまった事実。まさに諺の通り周りが見えなくなってしまったのですね。多分、先生はこのような人たちになって欲しくない思いがあったのだと思います。また、当時先生のご子息は5歳でした。自分の子供も我々同様にこのような人たちになって欲しくないという願いもあったことだと思います。
この諺はBSMの方々なら、大人になった今でもこの諺通りに陥りやすい状況になったことはないでしょうか、勉強にせよ仕事にせよ家族にせよ人間関係にせよ。煮詰まったり些細なことでも本当にこの状況に陥りやすいですよね。
諺を発展させる
当時、言葉遊びが好きでした。「二兎を追うものは一兎も得ず」を「二兎を追うものは三兎を得る」とか頭の中で言葉遊びを楽しんでいました。
今日も楽しい授業があって学校の門を出て下校します。坂道を下りながら今日習った諺を題材にして言葉遊びが始まります。「見ず」は「見ない」と習ったな。だったら「木を見て森を見る」にすると面白いな。でも何か変でしっくりこないなと思いながら足は国鉄(現JR)の飯田橋駅に向かっていきます。ちょうど現在の東京都立大学オープンユニバーシティのビルが見えてきたところで、言葉を入れ替えてみて「森を見て木を見る」にしてみたらどうだろうと思いました。顔はニンマリしながら駅に向かっていきます。
諺を発展させてコンテンツを思考する
駅員さんに定期を見せて階段を上がり千葉方面の総武線を待ちます。電車がホームに止まって乗車するとある考えが思い浮かび上がりました。
「これを音楽に使ってみよう!」
と。ピアノを習い始めて5年が経過しました。色々な曲を聴くのが好きになっていましたがクラシックを聴くのが苦手でした。理由は簡単で好きな旋律がまた出てくるまでが時間がかかるといった単純な理由でした。このことわざを発展させたことがきっかけで
「森は曲だな。木はメロディだな。だったら全体をしっかり聴いてみよう」
という発想が出てきました。気がつけば乗り換えのお茶の水駅に到着していました。
夕食後、親の許可を得て自分で聴けそうな曲を聴きます。LPレコードをターンテーブルに置いて慎重に針を落とします。
選んだ曲は、ベートヴェンのピアノ協奏曲第5番変ホ長調op.73「皇帝」第1楽章:アレグロです。
それから、次第に自宅にあるクラシックレコードを最後まで聴くようになります。バッハやモーツアルト等々。一通り聞くと自分では気づかなかった音や旋律を発見出来るようになってきました。曲を聴くのがとても楽しくなってきました。譜面を見るのも楽しいし、この曲のこの旋律で使われている楽器は何だろうという疑問が沸いてきてピアノ先生や音楽の先生に色々聞いては勉強していきました。これが機会となって作曲をした人物がどんな人なのか時代背景も含めてその後調べるようになります。音楽における思考の始まりですね。本当は校則違反になるのですが立ち寄りも頻繁にするようになります、ランドセル背負いながら(笑)銀座のヤマハに何度も足を運びました。そんな中、銀座で出会ったのは同じ制服を着ていた作曲家の鷺巣詩郎先輩でした。自分の書いたスコアと売っているスコアを床に座って必死に比較していました(笑)。採譜の練習をしていたのですね。不思議な先輩でした。彼の曲から1曲紹介します。
その頃、クラスメイトのお兄さん、お姉さんからも遊びに行くといろいろなレコードを紹介してくれました。「はっぴえんど」には衝撃を受けました。特に細野晴臣という人物は凄いと思いました。ベースギターという楽器の名称を覚えたのもこの頃です。曲を聴きながら次第に低音部やリズムについても関心を持つようになりました。ポップスの必要な要素がベースとリズムが鍵になっているのに気がつけた事は幸せでした。
ポップスでも大好きな曲に変化が起こります。
僕のポップスの原点はこれです。
セルジオ・メンデス&ブラジル66のMas Que Nada(マシュ・ケ・ナダ)
自分の中に「何故好きなのか?」という疑問が出てきました。それじゃあ譜面にしてみようと考えました。
分析することで思考する作業の始まりですね。
イントロは
|F|Gm7|Gm→B♭m7|Dm|
ときて
Aメロは
|Fm7|Dm→Em(♭5)|Dm|Dm→Am|
|F|Em(♭5)→Dm7|Am|Em(♭5)|
|Dm|B♭|C|Em(♭5)|
|Dm|Em(♭5)→C|b♭|
といった具合でしょうか。
これで構成されるコード進行(流れ)とリズムの取り方が好みで好きなんだと思いました。
僕の通っていた学校自体フランス人の創設した学校なので、フランス人の先生も多く学校には彼らが持ってきたレコードのコレクションが数多くありました。自然とフランスのドビュッシー、ラベル、サティなどの近代音楽を聴くようになります。また、不思議なことに歌謡曲やジャズ、ロック等、ジャンルに関係なく音楽を楽しむようになってきました。ビートルズを聴くようになったのもこの頃です。高学年になると現代音楽も好きになってきました。
平行して書籍を自ら進んで読むようになります。SFや漫画を読むようになったのもその頃。映画もじっくり鑑賞出来るようになってきました。小学生の高学年になると写真やカメラ(一眼レフ)にも興味が出てきました。土門拳に出会ったのもその頃ですね。それからプラモデルや機械工作が好きで秋葉原に通いラジオキットを購入し、ハンダ片手に組み立てラジオ放送も聴いてました(萩本欽一さんの番組が好きだったのでニッポン放送はよく聴いていました)。
趣味が高じてTK-80というNECのマイコンキットを小学校を卒業する間際に購入してハンダを片手に組み立てました。ハンダの作業が大変で週末の土曜日には秋葉原のラジオ会館にあったビットインにはよく通っていました。親切に修正箇所を教えてくれて動いたときには嬉しかったですね。これが僕のPCライフの始まりとなります。
さあ、もう一度タイムマシンに乗って現在に戻りましょう。
コンテンツが好きになる、興味がある、関心があるなど自分の心に何か感じられるものがあればれば、最初は「木を見て森を見ず」から始まります。
僕は「○○が好き」ということについて理屈はないと思っています。直感といっても良いと思います。
でも少し時間が経過して心が落ち着きを戻すと「好きな理由は?」と問いかけます。
音楽でも書籍でも映画でも写真でも同じ問いを自分に問いかけます。同時に普通の人間ですから好まないものもあります。同様に「好まない理由は?」と問いかけます。
明確な解や理由が出ないとき必ず何かが足りない、不足している、理解が足りないと感じます。要するに勉強が足りないのですね。
例えば好きなミュージシャンがいて、このミュージシャンはどんなミュージシャンに影響されたか、影響された音楽は何か調べる限り調べます。そうすると最初は「木を見て森を見ず」から始まり「木をみて森を見る」ようになり、気がつけば「森を見て木を見る」ようになってくると思います。そうなると音楽を聴くのがより楽しくなってきます。書籍でも映画でも写真でも同様だと思っています。思考することを楽しんでいるのですね(笑)。
気がつけば諺は更に発展し、
森を見て木を見て、さらに枝を見て葉を見て芽を見て最後に根を見る
ようになってきました。全てのコンテンツに対してそうなるようになってきました。
良いか悪かは別にして、ものの見方・考え方が広がり変化することは良いことだと思っています。それが自分にとって様々な引き出しができるという証拠なのでしょう。そして今の世界における多様性に柔軟に対応するための様々な解釈・判断に繋がっていけば面白いと思ってます。
無知の知
そこから得たものをまとめると僕は「無知の知」に着地しています。ソクラテスが残した有名な言葉ですが、まだまだコンテンツにおける真理の探究は続きそうです。最近は知らないことが恐ろしく感じられるようにもなってきました。
まだまだ、これからもコンテンツを皆さんと楽しみながら探究の旅を続けたいと思います。
まとめ
そんな思考をしている日々の生活で現在皆さんにお伝えできることは2つのことです。
okitaさんとのポッドキャストでも話しましたが、
「めんどくさいことが幸せ」
「無駄なことが人を豊かにする」
皆さんはどうでしょうか?
BSMを通して、その道の達人はたくさんいます。その人を参考にして、リスペクトして新しい森や木を見つけてみませんか?自分の能力、興味・関心が拡大・覚醒するのを感じると思います。
最後に
明日はクリスマスイブ明後日はクリスマスです。
仕事で過ごす、友人と過ごす、恋人と過ごす、家庭で過ごす等々あると思います。
僕は冬期講習をしています(笑)。そして夜は教会に行き祈りを捧げます。
良くも悪くも1年間過ごせたことに感謝しつつ、来年はより良い年にと。
毎年、車の中でこの曲を聴きながら。
メリークリスマス!
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